インタビュー
バスケットボールプレイヤー
田臥勇太
インタビューが行われたのは9月に開幕したばかりのNBL(ナショナル・バスケットボール・リーグ)のシーズン真っ只中。約束の時間からほんの数分遅れ、「お待たせして申し訳ありません」とその場の全員に頭を下げながら部屋に入ってくる姿に誠実そうな人柄が滲み出る。
現在リンク栃木ブレックスの司令塔としてチームを牽引しながら、日本人初のNBAプレイヤーとして自身のさらなる高みを目指す田臥選手に、子ども時代から現在、そして未来を語ってもらった。
数日前に33歳の誕生日を迎えたばかりの田臥選手がバスケットに出会ったのは小学2年生の時。
「もともと母と3つ上の姉がやっていたので、それにくっついて行ったのがきっかけです。サッカーなど足を使うスポーツより手を使う方が得意だったということもあったし、チームスポーツなのでお兄さんたちと一緒に体を動かすのがとにかく楽しくて、すぐに夢中になりました」
小さな頃からスポーツが大好きだった少年がバスケットボールの世界に夢中になったのにはNBAファンの父の影響も大きかった。
「当時、父がテレビで放送されたNBAの試合を録画してくれていて、そこで初めて見たマジック・ジョンソンのかっこよさに衝撃を受けました。それからは、どうしたら彼みたいになれるだろうと何度も繰り返しビデオを見て、プレイを真似したりしていました」
小学校のバスケット部に入って全国大会に3度出場、地元の中学に進んでからは部活の練習後も近所の公園で黙々と練習に励むバスケット漬けの毎日を送り、主将を務めた中学3年の時に全国中学生大会で得点王に輝いた。その卓越したセンスとスピード、スキルで田臥勇太という名前は瞬く間に全国に知れ渡ることとなり、ある日、NBAのスーパースター、パトリック・ユーイングとのテレビコマーシャル出演の話が舞い込んでくる。
「撮影はニューヨークで行われたのですが、アメリカに行くのも初めてで、憧れのユーイングに会えたり、NBAの試合を生で観戦したり、すべてに感激しっぱなしという感じでした」
ユーイング選手が実際に目の前に現れたときのことは今でも鮮明に覚えている。
「あんなに大きい人(2メートル13センチ)をそれまで見たことがなかったし、それはもう圧倒的なオーラを放っていました。撮影中の思い出は、彼にドリブルを取られるというシーンで僕が本気になってかわしてしまった時に、取らせてくれよというようなジョークでその場を和ませてくれたことですね」
撮影後に観戦したマジソンスクエアガーデンでのニューヨーク・ニックス対メンフィス・グリズリーズ戦では、ユーイングをはじめトッププレイヤーたちが繰り広げる圧巻のプレイにただひたすら心を震わせていたという。ひとりのバスケット少年が世界最高峰の世界に触れ、感じたことが、未来を照らす道しるべとなった。
中学卒業後はいつも傍で見守っていてくれた親元を離れ、バスケットの名門として知られる秋田能代工業高校への入学を決意する。
「両親は、自分で決めたのなら思いきり頑張ってきなさいと言って送り出してくれました。どんなときもああしろこうしろと言わず、自分の好きなことをして欲しい、私たちはそれを応援するだけだから。と言ってくれることにとても感謝していますし、それが今日までずっと大きな支えになっています」
日本屈指の強豪校では1年生からレギュラーの座を獲得し、高校総体、国体、全国高校選抜の3大タイトルを3年連続で完全制覇、史上初の9冠を達成する。高校3年生にして日本代表に招集され、田臥選手は一躍時の人となった。日本全国の大学からスカウトが殺到する中、次なるステージに選んだのはアメリカだった。
ハワイのブリンガムヤング大学での最初の壁は
「英語ですね。まったくのゼロというかマイナススタートだったので。学校の授業もそうですが、外国で生活すること自体初めてなので、銀行口座ひとつ開くにも分からないことだらけでした。まずは行ってみなくちゃ分からないという気持ちで飛び込んだのですが、行ってみたらこんなに大変なのかと強烈な先制パンチを喰らいましたね」
NBA入りを目指すには英語は必須。そう考えて英語のプログラムが充実しているこの大学を選んだが、単位を取得しないとバスケットの練習に参加することができなかった。
「バスケットに集中できないジレンマは大きかったのですが、自分で決めたのだからやれるところまでは自分でやろうと、練習ができない時はジムでウエイトトレーニングをしたりしていました。それに友達やチームメイトたち、日本で応援してくれている両親の存在も大きかったですね。まわりの人たちに助けてもらいながらなんとかやっていました」
2年生になって怪我に悩み、3年生でようやくレギュラーとなったが、チームのレベルもコーチの方針も自分の納得のいくものではなかった。もっとバスケットに打ち込みたい、その一心で帰国を決めた。
帰国後、スーパーリーグのトヨタ自動車に入団しプロ選手としての活動を開始、その年の新人賞獲得やオールスターにファン投票1位で選出されるなど華々しい活躍を見せたが「あのときは自分の中で何もできていなかったんです。新人賞といっても他に新人がいなかっただけで」と本人はいたって冷静に当時を振り返る。
「2年目からはもっとがんばらないといけないな、今アメリカに行ったらどうなるのかなと思って、シーズンオフにアメリカへ一人旅に出かけました。知り合いを辿ってNBAの試合を何試合か見に行ってみると、その中に以前試合したことのある選手がいて、彼らの活躍する姿に刺激を受けました。そうしたら、自分もまた彼らとプレイしたいという気持ちが強く湧き上がってきて、それがNBA入りを目指す決め手となりました」
トヨタを退団し、ゼロからのスタートとなるアメリカへ渡ったときも大きな不安はなかったという。「ただやりたい、という気持ちだけで、後のことはあまり深く考えずに行きました。失敗を恐れていても何も始まりませんから」こうして始まった挑戦の日々の中で、もっとも苦労したことは自分を表現すること。
「チームワークを大切にする日本では周りとの協調が求められますが、アメリカでは自分がどれだけできるかということを見せないと、まったく相手にされません。僕は小さいし、いったい何者だ?という目で見られるのは当たり前。コーチからも日本に帰った方がいいよと何度言われたか分かりません。だからこそ、自分の強みは何なのか、不利な条件をプラスに変えて、他の選手と違うことをやらないといけない、ということを常に意識していました。」
小柄であることの壁をどう乗り越えてきたのか?という問いに「人はそう思うかもしれないけど、そうかと思ったらやっていけないし、自分はどこまでできるか挑戦したいんだということを、言葉ではなくバスケットを通じて表現していくしかありません」ときっぱり。チームに必要とされるために何をすべきなのかを考えることで精一杯で、落ち込む暇などなかったという。
「NBAの練習に初めて参加したチームのあるコーチが、バスケットは体のサイズじゃなくて、技術じゃなくて、一番大事なのはハート。必ずチャンスは訪れるから諦めずに自信をもってやりなさい。と言ってくれたことがすごく励みになりました。壁って、結局は自分の気持ちの問題なんじゃないかと思っています」
自分を信じてひたむきに練習に打ち込む日々が過ぎ、単身渡米して2シーズン目の2004年11月、ついに日本人初のNBAプレイヤーとして夢の舞台にデビューを果たす。
「小さい頃からずっと憧れてきて、ずっとかっこいいなと思ってきた世界でしたが、いざそこに立ってみたら、さらにかっこよく感じました。本当に嬉しかったんですが、正直こみ上げてくるものを嚙みしめるとか、緊張するとかという感じではなくて、試合で結果を残さなければ次の日いらないよといわれる世界ですから、とにかくそこで最高のパフォーマンスを発揮しなければということだけを考えていました。ここまでの過程が大変でしたから、今度はこの夢の舞台に立ち続ける大変さを改めて強く感じました」
子どもの時からの夢が叶った瞬間、それは終わりではなく、次なるステージへの始まりとなった。
トッププレイヤーがしのぎを削る世界で田臥選手を支えてきた言葉がある。
「Never too late(今からでも遅くない)という言葉をすごく大切にしています。物事はうまくいかないことの方が多いですが、さまざまな困難や壁を克服するたびに、自分の決意をぶれないものにするかがいかに大事かということを学びました。そして何かを決めるには、絶対に今からでも遅くないという信念を持っています」
活躍の場を日本に移した今もさらにプレイヤーとしての高みを目指す原動力は「ただバスケットが好きで上手くなりたいだけ」と笑う。
「今まで自分のプレイに満足したことは一度もありません。もっとこうできたな、ああできたなと思うことばかりなので、いつまでも終わりはありませんね。だからバスケットができれば、もうそれだけでいいというぐらい毎日楽しいです。その気持ちは小学2年生の時から今まで変わらないし、むしろ年々増していますね」
今目指すのは、できるだけ高いレベルのプレイをすることと、バスケットの楽しさを多くの人に伝えること。
「特に子どもたちにはプロバスケットの選手になりたいって思ってもらえるようなプレイを見せたいですね。自分が子どもの頃にマイケル・ジョーダンがなんであんなプレイができるんだろう?って見ていたようなかっこいいプレイを。
バスケットの面白いところは、体格も持ち味もさまざまな選手が一緒にできる競技だということです。あと、実際に見に来てくれたお客さんから、あんなに激しいと思わなかったという感想をよく聞くのですが、一回会場に来てもらってその激しさを感じてもらえたら嬉しいですね」
選手としてリーグを盛り立てる傍ら、USFとのイベントをはじめ、さまざまな活動を通じてバスケット振興にも積極的に取り組んでいる田臥選手。子どもたちとのふれあいは自分も原点に帰れる貴重な時間だと語る。
「できないことも一生懸命やろうとする姿を見ると、自分がバスケットを始めた頃の気持ちを思い出して、逆にいつも元気をもらいます。
プロ選手と一緒にプレイができたり、話を聞けたりというイベントは、自分が子どもの頃にそうだったように、とても嬉しいものだと思うので、これからもUSFと協力しながら、たくさんの子どもたちに何か感じてもらえるきっかけを提供できたらいいなと思っています」
最後に日本のバスケットの未来について2つの課題を挙げてくれた。
「まずは身近にできる環境がもっと増えればと思います。アメリカの場合はボールがひとつあればバスケットができる環境が整っています。日本にもそんな場所が少しでも増えれば、もっと身近に感じられるようになるのではないでしょうか。
あとは、今、日本にはNBLというリーグがありますが、そういうトップリーグがNBAのように子どもたちの夢の舞台になるように大きく膨らんでいかないといけないと思います。せっかく小中高とバスケット人口が多いのに、どんどん狭き門になっていってしまうので、そこが大きな課題ではないでしょうか」
だからこそ、プレイヤーとして人々を魅了する大切さを痛感している。憧れの世界を強い意志と努力で引き寄せた田臥選手の挑戦はこれからも続いていく。
バスケットボールプレイヤー
田臥 勇太
1980年10月5日、神奈川県生まれ。リンク栃木ブレックス所属。
96~99年度、秋田県立能代工業高校在学中、高校3大タイトル3年間制覇(史上初の9冠)。
02~03年度、トヨタ自動車アルバルク時代に新人王獲得。翌シーズンよりNBAに挑戦。05~06年度、プロ契約を結ぶ。日本帰国後、リンク栃木ブレックスで08-09年シーズンでベスト5・アシスト王・スティール王を獲得、翌シーズンではJBL優勝を果たしプレイオフMVPを獲得。現在もリンク栃木ブレックスで活躍中。