インタビュー
元プロサッカー選手
平瀬 智行
184センチの長身にトレードマークの茶髪、名ストライカーとして一時代を築いた現役時代と変わらぬ姿でリラックスしたムードを醸し出す。2010年に現役を引退した今、ベガルタ仙台のアンバサダーとして地域への貢献活動をはじめサッカー解説やクリニック、講演会など、今もサッカー一色の多忙な日々を送っている平瀬選手が語るサッカー人生とは?
サッカーに出会ったのは幼稚園のとき。
「僕の通っていた幼稚園に初めてサッカーチームができて、そこに入ったのがきっかけです。最初はまったく興味がなくて、親の話によるとボールと離れた場所で石ころ蹴ったりして遊んでいたらしいです。」
もともと外で遊ぶのが大好きな活発な子どもだった。スポーツ好きの父親の影響で何かを始めるのは自然な流れだったという。
「親父がフルマラソンを走るような家だったんです。だから運動会の10日前くらいになると、毎朝兄弟3人たたき起こされて短距離の練習をさせられました。それはもうビリなんて絶対に許されないというか、そういう親父のもとで随分鍛えられましたね」
地元のサッカーチームは小学校3年生まで入れない決まりだったので、1・2年生までは親のすすめで空手を習っていた。
「2年生のときに外でサッカー部の練習をしているのを見て、かっこいいなと思ったんです。それでやっぱりサッカー部に入ろうと思いました。でも3年生になってチームに入れた頃には、友達と遊んでいるほうが楽しくてほぼ練習に行ってなかったですね(笑)」
そんな普通の少年が4年生になったある日、テレビに映るマラドーナを初めて見て衝撃を受ける。
「いやぁ、かっこよかったですね。こんな風になりたいと。そのとき初めてプロのサッカー選手になりたいと思いました。当時日本にはまだプロチームというものがなかったので、子どもの純粋な夢としてですが」
それからはサッカーに夢中の毎日。当時の宝物が今でも実家に大切に残されている。
「何を思ったのか真っ白なノートに自分がこれからなりたいと思ったことをバーっと書いていったんです。小学校では鹿児島の代表に入ってとか、中学に行ったらこう、高校に入ったらこうと、日本代表になるまでかなり具体的に書いていました。オリンピックに出るとか、日産(横浜F・マリノスの前身)に入りたいとか、アルゼンチン(実際にはブラジル)に留学というのも全部書いていたんですよ。それが今見ても不思議なくらい本当にすべて叶っていったんです。
でもね、ひとつだけ書き忘れていたのがワールドカップ出場、それだけが抜けてました(笑)」
夢をひとつずつ実現する間、そのノートをいつも傍らに置いて何度も見返してきた。子どものときに純粋な気持ちで描いた「なりたい自分」は、今日までのサッカー人生を支える大きな力となった。
夢ノートの予言に従って(実際には中学時代に九州大会を勝ちあがり、その才能に目をつけた松澤隆司監督からの熱いラブコールで)サッカーの名門・鹿児島実業高校に進学する。そこには想像をはるかに超えた厳しい練習の日々が待っていた。
「冗談抜きで血尿が出るほどの厳しさでした。普通テスト期間中って部活は休みじゃないですか、でもサッカー部はダッシュ期間なんです。100メートルを14秒で走って46秒で戻ってくる1分のセットを30本。それを10日間で40本、50本と増やしていくんです。もう家に帰って勉強どころではなかったですよ」
今振り返ると、プロに必要な精神力は高校3年間で鍛えられたと断言できるという。
「鹿児島実業は基本的に精神を強くする学校なんだなという実感はありました。朝練は冬でも上半身裸ですし、今と違って真夏の炎天下でダッシュするときも水を飲めない時代でしたからとことん精神的に追い込まれて。毎日やめたいと思っていました」
それでもサッカーを続けられたのは、絶対にプロになるという強い気持ちがあったからこそ。そして時代も味方についた。
中学3年のときにJリーグが始まり夢の世界が目前に現れたのだ。
「ここでやめられないなっていうのがあるじゃないですか、プロになるまでは。当時は本当にきつかったですが、今はあの経験があったから、ちょっとのことではへこたれない精神力が身についたと思えます」
高校生活の最後に松澤監督への恩返しとして挑んだ高校サッカー選手権で優勝、大会得点王となった。
「最後に監督を胴上げしたかったのにどこにもいないんですよ(笑)。あとからロッカーで一人泣いてたと聞いて、厳しかったけど熱い心で僕らに向き合ってくれたいい先生だったんだなと思いました」
プロへの思いと努力が実を結び名古屋グランパスと鹿島アントラーズからのスカウトを受ける。当時鹿島にはジーコを筆頭にレオナルド、ジョルジーニョが所属、その圧倒的な選手層の厚さに惹かれて鹿島に入団を決めた。満を持してプロ入りを果たしたが、入団後すぐにそのレベルの高さに愕然とする。
「まさに最初の挫折ですね。すべてのスピードが違うんです。ボールも間合いもぜんぜん違う。技術のレベルの差を思い知らされました。最初の半年間は練習が苦痛で出たくなかったです。レオナルドやジョルジーニョたちのプレイを見るたびにつくづく俺って下手だなと思って。その一方で日本代表になる目標があったので、いつかは俺もという気持ちもありました」
「鹿島では最初の2年目を終えたところで1試合しか出場していないので、まず試合に出ることを目標にしていました。プロに入ったのに試合に出られなくて、いきなり首を切られたら恥ずかしいじゃないですか。それがいやなら頑張るしかないなと思って」
そんな時に鹿島の若手選手にたびたびおこなわれていたCFZ・ド・リオへのレンタル移籍の話が舞い込む。
「ブラジルでの経験をひとことで言うなら、楽しかったです。鹿島では2軍の控えだったのが、ブラジルではスタメンとして試合に出られるようになったので、プレイできる喜びや感覚を取り戻しました。試合に出ることがこんなに楽しかったのかと改めて感じたことが一番の収穫だったかもしれません」
ブラジルではフラメンゴやバスコダガマといった強豪チームとの練習試合も経験した。
「あのロマーリオとかと試合できるんですよ。嬉しくてコーナーで近づいたときにちょっと触っちゃたりしてましたよ」と少年のように語る。笑顔の裏には、鹿島が自分の将来に期待をしてブラジルに行かせてくれたことや、自分が必要とされる選手になるために身に付けなければいけない技術について見つめなおす真摯な時間があった。そして帰国後にビッグチャンスが訪れる。
ブラジルから帰った翌年の99年、アジアクラブウィナーズカップに鹿島で初めてスタメンとして試合に登場する。
「Jリーグにもまだ数試合しか出ていなかった頃ですが、FWがほとんど怪我をしていたのでたまたま僕が出ることになったんです。そこでたまたま4点取れて、その試合をたまたまオリンピック代表のトルシエ監督が見に来ていたんです」
本人はただ偶然が重なっただけと謙遜するが、翌日の新聞には「鹿島はこんな選手を隠していたのか」というトルシエの言葉が大きく報道された。
オリンピックのアジア予選壮行試合のオーストラリア戦に招集され、オリンピック代表メンバーへの階段を上っていく。
「最初に呼ばれたときは嬉しさと緊張と半々でしたね。Jリーグではほとんど実績を積んでいなかったので、ここで結果を出さないと次は呼ばれないというプレッシャーもありました。でも僕はポっと出てきただけなので失うものが何もない、そう開き直ったらとても調子がよかったんです」
結果、オリンピック予選で17得点を挙げ予選得点王となった。
「オリンピック代表に選ばれたという自信とあのメンバーの中でプレイできたことは今も僕の財産です。中田英寿さんや中村俊輔さんがいて走ればそこにボールが出てきましたから。僕は本当に運がいいんです」
たまたま運がいいだけと何度も語る姿には、積み重ねてきた努力は当たり前のことだというプロとしての姿勢が滲み出る。
オリンピック本戦と同じ年、鹿島でJリーグ初の三冠(J1リーグ、ナビスコ杯、天皇杯)を制覇する。名ストライカーとしての華々しい活躍ぶりは多くのサッカーファンを虜にした。その後、横浜F・マリノスを経てヴィッセル神戸時代に不調に悩まされることになる。
「2006年にバクスターが監督に就任してから半分くらい試合どころかベンチにも入れなかったんです。そのときに監督はコンディションをあげれば必ず使うと言って、僕のことをずっと気にかけてくれていました。誰かが自分に期待してくれているというのを感じることができるのは、選手としてとてもありがたいことでした」
そしてもう一人、大きな支えとなってくれた存在がある。
「そんな僕を見ていたアツさん(三浦淳宏選手)が、練習後に「やるぞ」って声をかけてくれて、それから毎日シュート練習につきあってくれました。ある遠征の日、僕は一人残って練習をしてたんですけど、試合に行く前にアツさんが僕のロッカーに「俺はおまえを信じてる、だから頑張れ」って手紙を置いてくれたんです。そんなの見たら頑張るしかないですよね。アツさんの存在がなければ僕はあの時で終わってたと思います」
それからめきめきと調子を上げ、半年振りにホームでの試合に招集がかかる。
「0対0の途中から出て1点入れて勝ちました。そのゴールを決めたときは初めてうるっときました。試合後にヒーローインタビューとサポーターへの挨拶をして戻ると監督が待っていてくれてハグをしました。そこでまたうるっときちゃいましたね」
さまざまな場面でたくさんの人に支えられてきたのも実力とひたむきさ、人柄の魅力によるところが大きいはずだが、本人はいたって普通にこう答える。
「いえいえ。僕は本当に運がいいだけなんです」
その後、怪我に苦しみ一度は引退を決意するも、ベガルタ仙台の手倉森監督からの「怪我はゆっくり治せばいいじゃないか」という一言に救われ現役続行を決意する。09年ベガルタ仙台のJ1復帰に貢献し翌年に引退。現在は同チームのアンバサダーとして地域貢献、サッカーの指導、解説などさまざまな分野に活動の幅を広げている。
「今、USFとのイベントなどを通じて、サッカーをしたことのない子や女の子にもサッカーの楽しさを伝えられることがとても面白いと感じています。子どもたちが最初はムリムリとか言いながらも最後にできた!と喜んでいる姿を見るのが一番嬉しいですね。だからUSFにはこれからもこういった活動を継続していただければと思っています。僕もいつでも協力させていただきます」
サッカー選手を目指す子どもたちには、小・中学生では楽しく基礎を身に着けることが大事だと話す。
「高校で決まると思うんですよ、プロに行けるか行けないかは。だから、小中ではあせる必要はないと思います。ちゃんとした基礎を身に着けてから高校でとにかく鬼練すればいいんです(笑)」
これから子どもたちに伝えていきたいことは、チャレンジする気持ち。
「今の子どもたちってできないと思ったらやらないんです。そんな時は『いいか、できないんじゃない、やってないからだ』って話をしています」
元プロサッカー選手
平瀬 智行
1977年5月23日、鹿児島県出身。ベガルタ仙台アンバサダー。
95年鹿児島実業高校3年時に高校サッカー選手権優勝(得点王を獲得)。96~02年の鹿島アントラーズ在籍中CFZド・リオ(ブラジル)に留学。00年シドニー五輪日本代表のエースストライカーとして活躍。同年鹿島でJリーグ初の三冠(J1リーグ、ナビスコ杯、天皇杯)を制覇。横浜F・マリノス、ヴィッセル神戸を経て、09年ベガルタ仙台のJ1復帰に貢献し翌年引退。現在は同チームのアンバサダーとして活躍中。