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インタビュー

アスリートからの伝言vol.6 競泳 寺川綾さん

あきらめたら夢は叶わない

ロンドンオリンピックの感動から2年。今、競技人生を振り返って想うこと、これからのチャレンジとは

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元競泳選手
寺川 綾

ロンドンオリンピック100メートル背泳ぎで銅メダルに輝いた瞬間、日本中を感動に包んだ寺川綾さん。その清々しい笑顔を生み出したのはあきらめない心だった。173センチの恵まれた体躯と誰もが認める天性の才能、タフな精神力と前向きさ。一見無敵そうに見えるトップスイマーが乗り越えてきた数々の試練とは?昨年現役を引退し、プライベートでは結婚を発表、公私共に新たなステージが始まったばかりの今、夢を実現するまでの想いを語ってもらった。

いつも全力で泳いできた

水泳を始めたのは3才のとき。体が弱かった寺川さんに体力をつけさせようと母親が選んだ先は、オリンピックや世界大会に出場する選手を数多く輩出する名門・イトマンスイミングスクールだった。

「子どもの頃から泳ぐことが大好きで、家族で旅行するときは海やプールがあるところがいいと言っていました。イルカのトレーナーとかにも憧れていましたね。とにかく水の中が好きなんです」

泳ぐことは歩くことと同じくらい自然なことだったという生まれながらの天才スイマー。

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幼稚園の頃には選手育成コースに入り、小学生になると週6回、早朝練習を含めると週8回の練習に励む水泳漬けの日々を送った。

「気づいたときには育成コースにいて練習は厳しかったのですが、スイミングスクールの友達と会えるのが楽しくて続けていました。違う学校の友達ができたことも嬉しかったですね」

もともと活発で負けず嫌いな性格だったが、当時は水泳選手になりたいとか、タイムを縮めたいといった明確な目標を持っているわけではなかった。

「純粋に泳ぐのが大好きで、仲間と一緒に練習することが楽しかったんです。たまたま選手コースにいるから、練習して試合に出ているという感じなので勝ち負けにはあまりこだわっていませんでした」

そんな寺川さんが、オリンピック選手へと成長するきっかけは何だったのですか?という質問に、ゆっくりとした口調でこう答える。

「今、選手生活を振り返っても、いつがターニングポイントだったのか自分でもわかりません。というか、そういう風に考えたことがなかったという方が近いですね。いつもその瞬間瞬間を全力で泳いできたという感じなんです。だから高校2年のときに福岡で開催された世界水泳選手権に初めて出場したときも、選考会を兼ねた日本選手権も、目標タイムを目指して泳ぐことに集中していただけで、日本代表に選ばれたいとは思っていませんでした」

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当時、そんな本人の気持ちとは裏腹に、有望な高校生スイマーの出現をメディアが大きく取り上げ、周囲の期待や注目は高まる一方だった。

「日本代表に選ばれてから環境が一変しました。選手として注目されるのは嬉しいことですが、自分の意志とは関係なくメダルを求められることや、常に周囲の視線を感じることに、高校生だった私はとても戸惑いました。学校帰りに知らない人から声をかけられたり、サインを求められたりすることが怖かったりもして。選手である以上、楽しいだけでは泳げないのかなと初めて感じた時期でもありました。」

将来を嘱望されるアスリートとしてのプレッシャーや宿命を背負いながらも、水泳をやめようと思うことはなかった。

「周囲がどんなに変わっても、いつもと変わらず接してくれる仲間たちと、いつもと変わらぬ練習に打ち込める場所の存在は大きかったです。あとはやっぱり泳ぐことが好きだからということに尽きますね」

 こうして世界の舞台へと第一歩を踏み出し、翌2002年のパンパシフィック水泳選手権、2003年の世界選手権(バルセロナ)と国際大会に出場、目標は2004年のアテネオリンピックへと向かっていった。

「もったいないから続けなよ」

200メートル背泳ぎでアテネオリンピックに出場が決まったときも、実はその状況をよく理解できていないところがあったという。

「オリンピックというものを大きくイメージしすぎていて、実際に行ってみたら、世界のトップ選手が集っていて凄いなと感じた以外には、あれ?会場の雰囲気もインターハイとあまり変わらないなって、そんな印象でした(笑)」

当時は本気で世界を目指すといいながら、具体的なイメージが持てていなかったとも振り返る。

「まだ周囲のメダルへの期待と自分の気持ちとのギャップを埋められないでいたのかもしれません。心の中では、自分の目標だった決勝に進み8位入賞を果たしたことで満足していたのですが、インタビューではメダルをとりたいと言わなくてはいけない雰囲気でしたし。
だから決勝を前にして、目標を見失い、どう泳いだらいいのかわからなくなってしまって泣いていたそうなんです。でも泣いたことも記憶にないし、決勝でどう泳いだかも一切記憶にないんです。今、当時の自分に声をかけるなら、せっかくの大舞台なのに覚えてないなんてもったいない!って言いたいですけど(笑)」

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思いがけず、帰途に着く空港でオリンピックでは結果がすべてだと思い知らされた。

「メダリストとそうでない選手たちの待遇が天と地の差なんです。座席クラスも分けられたりして。悔しかったです。もちろん、一番悔しかったのは力が及ばなかった自分自身に対してなのですが、何で同じ選手なのにこんな風に差別されるんだろうと。あのとき、次のオリンピックでは絶対メダルを獲ってあっちに呼ばれたいなと強く思ったんです。我ながらどうしてこんなところで気合が入るんだろうと思いながら(笑)」

アテネから帰国し、2008年の北京オリンピックに向けてアメリカ留学を決意する。

「単純にアテネでアメリカの選手が強いと実感したから行きたいと思ったんです。私はやりたいことがあったら失敗を恐れずトライするタイプなので。それがいいときもあれば悪いときもあるんですが(笑)。実際にアメリカに行ってみたら言葉がぜんぜんわからなくて大変でした。コーチが何を言っているのか、皆が何をしているのかわからないまま、とりあえず一番後ろからついていくだけで頑張るところも頑張れていなかった。
でも時間が経つにつれてわからないことはわからないと自分でちゃんと言うようになりましたし、チームメイトも助けてくれるようになりました。日本を離れることで今までどれだけ恵まれた環境にいたかを実感できましたし、自ら動かなければ何もできないアメリカでの経験は今も私の中で活きています」

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一年後、コーチの移動を機に帰国。翌2007年に大学を卒業後、社会人スイマーとしてミズノ株式会社に入社する。北京オリンピックに向けた練習を重ねる日々に、確かな手応えを感じながら臨んだ日本代表の選考会で、自己ベストを出したが代表落ちしてしまう。

「4年間ずっと北京を目指してやってきたので、悔しくて残念でした。あのときのことを挫折という人が多いのですが、自分の中では挫折とは思っていません。持てる力をすべて出しきった結果でしたし、自己ベストを出せたことも自信になりました」

この試合のあと、メディアや周囲の人からは「長い間お疲れさま」という言葉を投げかけられた。

「辞めると思われているということがショックでした。でも正直なところ、あぁ辞めるべきなのかなと思った部分と、まだできると思った部分と半々ぐらいでしたね」

寺川さんは自身も認める楽天家だ。現役続行を決意したのは選考会直後に気の置けない水泳仲間たちと集った席だった。

「これからどうするの?と聞かれて、4年間あれだけ頑張ってもダメだったのだから、もう辞めようかなと話したんです。そうしたら、ここまで続けてきて辞めるなんてもったいないよ。と軽く言われて、じゃやろうかなと(笑)。気持ちがすっと軽くなりました。人が元気になれる瞬間って実はちょっとしたきっかけだったりするんですよね。だから仲間には本当に感謝しています」

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4年にたった1回、1分足らずにすべてをかけて

それからは持ち前の行動力とタフな精神力を存分に発揮する。北島康介選手をはじめ数々のオリンピックメダリストを育てた平井伯昌コーチのもとで、自分の泳ぎを見つめなおそうと自ら門を叩いた。

「最初はすぐに断られました。これから水泳を続けてどうなりたいのかと。でも私の中では先生が受け入れてくれるまで何度でも行こうと決めていました。私は自分がしたいことがあると周りのことが全然見えてなくて。それが長所でもあり短所でもあるんですが(笑)」

周りにどう思われようとも、世界でもう一度戦いたい、水泳選手として絶対に結果を出したい。その熱意が実り、平井コーチから練習の参加が許された。

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平井コーチの練習は想像以上に厳しかった。

「泳ぐ練習内容も陸上でのトレーニングも一瞬も気を抜けないメニューだったので、ついていくのに必死でした。自分で行くと決めたからにはつらいなんて言えないですし(笑)本当に大変でした」

平井コーチのあるインタビュー記事に、当時お互いの信頼関係を築くまで試行錯誤を重ねたと書かれていたことを聞いてみると、

「そうなんですか?練習がきつくて、まったく気づかなかったです。ほらね、いい意味で周りが見えてないんです、私」

と笑い飛ばす。
ハードな練習に必死で喰らいつきながら迎えた2009年の日本選権で、50・100・200メートル背泳ぎ全種目で優勝、見事な復活を果たした。

「自分でもびっくりしました。毎回全力で泳いでいることは以前と変わりませんし、特に成長を実感するということもありませんでしたから。ただ、この頃には自分の目標を明確にし、そのために何が必要なのかをしっかりと向き合えるようになっていたと思います。そうすると周りのことがまったく気にならなくなるんです。アテネオリンピックのときのように、周りの期待に自分の目標がついていけずに悩むこともなくなりました」

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その後も怒涛の快進撃を続け、2012年ロンドンオリンピックで目標としていた100メートル58秒台の日本新記録をたたき出し、悲願の銅メダルを手に入れた。それはまさに日本中を感動に包む瞬間だった。

「長い選手生活の中でも、最高の泳ぎができたと思っています。心と体と水のすべてがぴたりとはまる感覚でした。アテネのときとはまったく違う感覚で、4年にたった1回しかない、ほんの1分足らずにすべてをかけるこの一瞬一瞬を心から楽しんでいました」

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27歳で獲得した銅メダルということも話題になった。

「自分では年齢のことはまったく気にしていなかったので、そういうことはぜんぶ後付けなんですね。もちろん高校時代より体力的に大変だったりもしましたけど、そんなこと言っていたら競技なんて続けられないですから。逆に選手を長く続けていることを褒められたり、あの年齢で自己ベスト出したとか言われたりすることに違和感を覚えることがありました。自己ベストはただの自己ベストにしかすぎないんですけどって。でも根が楽観的なので、学生が同じことをしていても何も言われないのに、私は褒められてラッキーだと思ってました(笑)」

周りの期待に押しつぶされそうになったアテネオリンピックから8年、ずっと欲しかったメダルをやっと手にして気がついた。

「メダル自体はただの物。本当に大切なのは頑張って続けてきて夢を叶えたことなんだって、ようやくわかったんです(笑)」

水泳の楽しさを伝えていきたい

2013年12月の引退発表では、あえて「卒業」という言葉をつかった。水泳は生涯のスポーツだから、競技は卒業してもずっと泳ぎ続けていきたいという気持ちからだった。それから4ヵ月後、結婚・妊娠のニュースがメディアをにぎわせ、公私ともに新たなステージが始まった。

「28歳まで長いときで1日5~6時間は水の中にいる生活でしたから、最初は陸の生活に慣れるのが大変でした。歩いただけで筋肉痛になったり、駅の階段上がって息がハァハァしたりするんですよ(笑)。仕事ではテレビのレギュラー出演の話をいただいたり、新しいことにも挑戦しています。今までは夢も目標もすべてが水泳でしたが、これからはひとつに絞らず選択肢をどんどん増やしてもいいのかなと思っています。どんな未来が開けるのか自分でも楽しみにしているところです」

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水泳にはずっと関わっていきたいが、後進の育成ではなく、泳ぐことの楽しさを伝えていきたいという。

「早く泳ぐことだけが水泳じゃないですから。例えば泳げない子どもたちとプールに入って遊んだり一緒に水に浸かるだけでも、嬉しいとか楽しいと感じてくれるきっかけになればいいなと。あとは試合に出ることが目的ではないマスターズの方々と一緒に泳いだりとか、そういうことができたらいいなと思っています」

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今、2020年の東京オリンピックを目指す子どもたちが増えてきました。そんな子どもたちへのメッセージをお願いした。

「時間はかかったけれど、私が自分の夢を叶えることができたのは最後まで自分を信じて諦めなかったからです。どんなスポーツでもすぐには上手にならないけれど、諦めずに一生懸命がんばって自分の夢を叶えてほしいですね」

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元競泳選手
寺川 綾(てらかわ・あや)
1984年11月12日、大阪市生まれ。
3歳で水泳を始め、近畿大学附属高等学校2年生だった2001年に世界水泳選手権に出場。2004年アテネ五輪200メートル背泳ぎ8位。08年の北京五輪出場を逃すも2012年ロンドン五輪では100メートル背泳ぎ銅メダル(日本新)、4×100メートルメドレーリレー銅メダルを獲得。2013年世界水泳バルセロナで50・100メートルの2種目で銅メダルを獲得し、12月に現役を引退。
現在はミズノの社員として水泳の普及と指導にあたる傍ら、テレビ、イベントなどでも活躍、2014年4月に結婚を発表し、公私ともに新たなステージを迎える。

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