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インタビュー

アスリートからの伝言vol.11 バドミントン 池田信太郎さん

自分にできるすべてのことを

バドミントン界のフロントランナーが挑む新たなステージ

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元バドミントン選手
池田 信太郎

30年以上の間、夢中で走り続けてきたバドミントン人生。2015年9月に現役を引退し、今、新たな舞台でバドミントンの素晴らしさを伝える仕事に精力的に取り組んでいる。世界選手権での日本人男子初のメダル獲得、初のプロ契約、BWF(世界バドミントン連盟)アスリートコミッションへの日本人初の立候補によるトップ当選など、「初」の文字がいくつも刻まれた先駆者としての足跡を辿りながら、これからの夢を語ってもらった。

「やりきった」といいきれる選手時代

引退してから3ヶ月。今の心境は「すべてやりきった。という一語につきますね。だから選手に戻りたいとはまったく思いません(笑)」と清々しい笑顔できっぱりと言い切る。「唯一、オリンピックでメダルが獲れなかったことは心残りですが、選手として伝えたかったことも、足跡を残すことも、自分にできることはすべてやったと心から言い切ることができます。だから、今は現役ではできなかった新しいことに挑戦するのが楽しくてしかたがないんです」と常に前だけを見つめてきた池田スタイルは現役時代と変わらない。

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選手時代から伝えたかったことは、「バドミントンの楽しさ」だという。

「もともとは自分が競技で成績を残すことに精一杯で、誰かに何かを伝えたいなんて考えたことはありませんでしたが、25歳で初めて日本のタイトルを獲得したときに、ぱっと客席を見上げたらお客さんが少なかったんです。その時、なんでこんなにお客さんが少ないんだろう、もっと多くの人にバドミントンの楽しさを知って欲しいなと思うようになりました」

それをきっかけに、試合に勝つことだけでなく、バドミントンの魅力をどうしたら知ってもらえるのか、少しでも自分が果たせる役割がないかを考えるようになっていった。
日本でのバドミントンの競技人口は、サッカーや野球よりも多いといわれているものの、競技場まで足を運んで観戦してくれる人はまだまだ少ない。

「実はバドミントンは世界最速の球技なんですよ。マレーシアの選手が出した時速493キロメートルというスマッシュスピードはギネス記録として認定されています。実際に試合を目の前で見ていただくと、その迫力にきっと驚かれると思います。あっと言う間に局面が変わる試合展開も見所です。でも集客面では課題が多いというのが現実ですね」

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これからは観に来てくれるお客さんが楽しめるような運営の仕方をしていく必要があると続ける。

「野球やバスケットなどは、エンターテインメントとしても楽しめるさまざまな仕掛けや努力をされている。でもバドミントンではまだまだそうしたところで足りないなと思います。会場に来てくれただけで、何かドキドキワクワクするようなおもしろい企画や演出をしていきたいんです」

そうした試みのひとつとして、ショッピングモール内にコートを設置し、ワールドツアーのような雰囲気を味わいながらバドミントンを体験できるイベントを行うなど、精力的な活動を続けている。

「会場は必ずしも体育館でなくてもいいと思うんです。外に飛び出して異空間でプレイするとまた新しい発見があるかもしれない。そんな柔軟な発想で多くの人たちと新しいバドミントンの価値を創っていけたらいいなと」

そう熱く語る姿には、現役時代から抱き続けるバドミントンを盛り上げていきたいという想いが溢れ出る。
ちなみに、引退後に一番したかったことは何ですか?という問いに、「仕事がしたかった」と即答する。

「もともと北京オリンピックに出場してメダルを獲るという目標を達成したら、早く仕事がしたいと考えていました。当時所属していた日本ユニシス実業団のバドミントン部で広報的なマネジメントもしていたので、チームのブランディングやマーケティングといったことをしていきたかったし、入社以来ずっと競技に専念させていただいていましたから、同期から5年近く遅れていたということもあって、早く彼らに追いついて会社の仕事に打ち込みたいという気持ちも強かったですね。それで次に何かしたいことが見つかれば、それを目指していこうと。とにかく引退後はビジネスの世界で勝負がしたいと常に考えていました」

オリンピックを目指していたトップアスリートとしての一面と、社会人として自らを俯瞰で見ることができる冷静さ、そのバランス感覚こそが今、そしてこれからの池田さんの最大の武器でもある。

できる喜びが、力を引き出す

そして今、ひとりのビジネスマンとして注力している活動のひとつが、バドミントンを通じた子どもたちへの教育だ。

「2015年12月から、0~6歳児を対象とした知育教室の経営に携わっています。そして2016年春には、小学校1~6年生を対象としたバドミントンKIDSアカデミーを開校する予定です。目指しているのは、バドミントンで試合に勝つことではなく、たとえば競技人生を終えたあとでも社会に貢献できる人材を育てるてるということです。スポーツを通した教育に力を入れていきたい。もともと教育に興味があったというわけではなかったのですが、自分が親になってから、子どもがいろいろなことを学ぶ機会や環境を作るのは、親次第だなと感じることが多くなって。それで、小さい頃から学ぶ楽しさを体験できる場所を提供したいなと思うようになりました。何かを学び、わかる、できるといった喜びが、これから成長をしていく上でとてもプラスになるし、そうした体験が一人ひとりの子どもたちの能力を大きく引き伸ばすことに繋がると思っています」

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自身もジュニア時代のコーチであった父のもとで、いったいいつから始めたのか覚えていないというほど小さな時からバドミントンに触れて育ってきた。その体験から、幼少期からスポーツを始めるメリットをこう分析する。

「小学校のときは、何かを教えてもらっているというよりは、まわりのお兄さんたちのやっていることを自分でもやってみたいという好奇心の方が強かったので、新しいことにどんどんチャレンジしながら自然に学んでいったという感じでした。当時は自分でも天才!と思うほど、何をやっても""できた、できた、できた""の連続で、楽しくて仕方なかったですね(笑)。例えば、コートのあそこにシャトルを落としたいと狙うと、大体それができるんです。周囲と比べてシャトルをコントロールする感覚が長けていました。また、相手の次の動きを読みながら動いていたり、そうした戦略的なところも無意識のうちにやっていましたね。こうしたらどうなんだろう、こうやったらもっと強くなるかな、とゲーム感覚で自分で考えながらひとつずつ目標をクリアしていった、その喜びや達成感が原点となって今に繋がっています。子どもの時に体験した楽しさは一生忘れられない宝物になるし、自分の才能に出会えるチャンスでもありますね」

自他共に認める才能に恵まれた小学生の頃を天才時代とするなら、中学時代は体が細く、パワーで負けてしまうダメ時代だったと当時を振り返る。地元の高校に進学し、今まで以上に練習に打ち込む日々を送った。

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「高校に入って変わりましたね、きっかけは、1年生のときに出場したインターハイです。自分は勝てなかったのですが、準決勝、決勝と試合が進むうちに、どんどん熱気に包まれていく会場の雰囲気に圧倒されました。まさに青春って感じで(笑)。それで自分もこんなところで試合がしたいなと強く思ったんです。それから自分の弱いところを分析して、それを克服するための練習メニューを自発的に考えたり、スマッシュを20本打つ練習だったら、それより5本多く打つようにしたり、常に""プラス1""のことをするようにしていました」

努力の成果は、翌年の全国高校選抜大会で現れる。シングルス3位入賞、チームも2位へと導き、全国にその名が知られるようになった。

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筑波大学を卒業後、日本ユニシスに入社。坂本修一選手とペアを組み、全日本総合選手権大会優勝、世界選手権で日本人初の銅メダル、全英オープンで日本男子21年ぶりとなる銅メダルを獲得など、ダブルス界のトップ選手へと躍進する。そして夢の舞台、北京オリンピックに日本代表として出場が決まった。

「北京オリンピックのコートに立つというのは特別な瞬間でした。よし、ここから始まるぞ。いざ、勝負だ!という気持ちで試合に臨みましたが、今振り返るとメンタル面がまだまだ弱かったんですね。あっという間に終わったんですよ、試合が。世界選手権でメダルを獲ったときのマレーシアの強豪ペアが相手で、彼らも国の大きな期待を背負って緊張してるだろうなと思っていたのですが、いざ試合が始まると、こっちもすごく緊張していて(笑)。1ゲーム目でどんどん相手にリードされて、坂本選手とも「ここからいきましょ」と声を掛け合うのですが、心と体がバラバラになって自分たちのパフォーマンスができませんでした。やっぱりオリンピックは別物だなと感じましたね」

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オリンピック選手が感じるプレッシャーもまた想像以上のものだった。

「出場が決まってから、信じられないくらい多くの人からの応援を受けるんです。そうした期待をいつの間にか背負っちゃうんですね。だからこそ、試合に集中できるメンタルの強さがいかに大切か改めて思い知らされました」

メダルを期待されて出場した北京で思うような結果が出せず、努力して積み上げてきた自信や誇りも、すべて無になってしまったと感じるほどの喪失感に苛まれた。

「オリンピックの舞台に立てただけでも嬉しい、というのは言い訳ですよね。そこで自分を評価してあげないとどこに喜びを感じていいのかわからないというか。やっぱり出るだけでは納得がいかなかったですね。北京オリンピックが終わったら働きたいと思っていたのに、いざ終わってみるとバドミントンへの気持ちが強くなる一方でした」

それから所属先の日本ユニシスと日本で初となるプロ契約を結び、潮田玲子選手との混合ダブルスで2度目のオリンピックを目指すことを決意する。
「イケシオ」の愛称で多くのファンに親しまれながら、見事にロンドンオリンピックへの出場権を手に入れる。

「ロンドンでは、結構落ち着いて臨めたと思います。二人とも集中できていました。試合で心がけていたのはベストを尽くすことと、平常心ですね。崩れてもすぐに追いつけるような気持ちの強さを持つことを常に意識していました」

そのためのコツは、練習をして自信をつけること、そして自分はこれだけやってきたんだから、いつもどおりにやれば大丈夫と自分に言い聞かせることだと教えてくれた。
2度のオリンピック出場で得たものは?という質問にこう答える。

「オリンピック出場を目標に掲げ、実現することができたことは素直に評価したいなと思います。納得のいく結果は出せませんでしたが、その過程で何度もつらい経験もしたし、もうダメだと思うところから自分を奮い立たせて努力もしてきました。多くの人に支えられながら、少しずつ成長してこられたことが一番の収穫だと思います。あとは、最近、人前で講演することが多くなりましたが、オリンピックの緊張に比べたらなんとかなる、と思えることですね(笑)」

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池田さんの足跡には「日本人初」という言葉がいくつも並ぶ。日本人初のプロ契約もそのひとつだ。引退後も正社員として働ける契約からあえて退路を断ってプロの道を選ぶことに怖さはなかったのか?と聞くと

「怖さよりも誰もやれなかったことを最初にできるという好奇心の方が大きかったですね(笑)」と明るく笑い飛ばす。実際にはプロ契約が満了してから大変な時期も経験した。「自分でスポンサーを捜して企業をいくつもまわったり、当時の大変さを語ると2時間くらいかかりますよ(笑)。落ち込むこともありましたが、後悔はまったくありません。僕は大学卒業時に一度バドミントンの道を諦めかけていました。運命的なことが重なって、日本ユニシスに入社できたというのが選手人生の始まりなんです。だからこそ、残りの競技人生は全力で努力しようと心に決めてやってきました。フリーというポジションを選んだときも、光栄にもやりたいと思えばできるようなポジションにいられたということが大きいです。自分でやりたいことができるチャンスがあるのに、やらないという選択肢はないと。すべてやり尽くして引退できれば最高じゃないかって(笑)」

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常にフロントランナーとして新たな道を切り拓いてきた。すべてをやりきったといえる幸せな選手生活を終えた今、バドミントンから得たこと、子どもたちへ伝えたいことを聞いた。

「バドミントンという勝ち負けの分かりやすい世界で生きてきたからこそ、勝つためにはどうしたらいいのか、目標にどうしたらたどり着けるのか、ということを自分で考えて努力することの大切さを学んできました。子どもたちから、強くなるにはどうしたらいいですか?という質問があったら、まずは本当に強くなりたいか考えることがスタートだよと言いたいです。本当に強くなりたくて努力をしていれば、もっと具体的な質問が出てくるはずだから。何をするにも目標を設定して、そのためには何をやらなくてはいけないかを考えることが大切。例えば、2020年の東京オリンピックに出たいなら、何歳のときにどんなタイトルを獲得しなくてはとか。ただ漠然と出たいなと思うだけでは目標にはたどり着けません。ぼんやりじゃダメだよって伝えたいですね(笑)」

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元バドンミントン選手
池田 信太郎(いけだ・しんたろう)
1980年12月27日、福岡県生まれ。
2007年クアラルンプールで開催された世界選手権の男子ダブルスで、坂本修一選手とともに日本人男子として初のメダルを獲得。2008年、同ペアで北京五輪に出場を果たす。2009年日本ユニシス株式会社とプロ契約を結び日本人初のプロ選手として活動を開始、2012年潮田玲子選手とペアを組み、混合ダブルスでロンドン五輪に出場。「イケシオ」の愛称で親しまれる。2013年からフリーとしてアルベン・ユリアント・チャンドラ(インドネシア)選手、株式会社エボラブルアジア所属アスリートとしてロバート・ブレア(スコットランド)選手とペアを組んで国際大会に出場。2015年、BWF(世界バドミントン連盟)アスリートコミッションに日本人として初の立候補、トップ当選を果たす。2015年9月現役引退。現在、BWFアスリートコミッション、日本リーグアンバサダーとして活躍中。

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